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2023年9月7日木曜日

上信電鉄と下仁田高校の先駆者精神

上野鉄道→上信電鉄

 上信電鉄は、その前身は明治28年に上野(こうづけ)鉄道会社としてスタートした。明治5年官営富岡製糸場による製糸業発展に伴い鉄道の必要性が高まったが、当初計画では、三井家が発起人となり鉄道敷設が企画された。

生糸取引で賑わっていた埼玉県本庄を始点に富岡までの開設が検討されたが、県内の交通網が発達するにつれ、商業の中心が高崎へと移り、新しいルートも高崎ー下仁田間へと大きく計画変更されることとなった。

明治27〜28年日清戦争終結後好景気で生糸ブームが起き上野鉄道計画の資金調達も順調だった。

しかし明治29年には景気の陰り始ると生糸は暴落、製糸関連業界もたちまち危機に陥り、鉄道建設計画も縮小見直しを迫られ「とりあえず、地形のなだらかな南蛇井までは鉄道を敷設して、生糸運搬を実現する。そこから西は見合わせる」という修正案が浮上した。

これを知った下仁田郷では、激しい鉄道誘致運動が起こり、多くの住民が貴重な田畑を売り、株主として鉄道建設の資金集めに協力した。こうした地域住民の熱意もあって、上野鉄道は再び高崎ー下仁田間敷設に戻されることとなった。
















以上は、平成7年刊行上信電鉄百年史より引用



組合学校下仁田高等家政女学校→下仁田高校

今の群馬県立下仁田高校の前身は、下仁田町外8か町村(下仁田町、馬山村、吉田村、小坂村、西牧村、青倉村、磐戸村、月形村、尾沢村)による組合組織だった。

周辺では、富岡町(現富岡市)には、県立富岡中学校(現富岡高等学校)、県立富岡高等女学校(前富岡東高等学校)、県立富岡高等家政学校(前富岡東高等学校)、富岡町立小幡農学校(現富岡実業高等高校)4校があり、いずれも公立高校であったのに対して、しかし下仁田町以西に居住する子女にとっては特別な家庭を除いてこれらの高等学校への通学は地理的、経済的に困難であった。


多くの子女に中等教育を受けさせたいという地域の要求が高まり、下仁田町長と関係村長が中心となり組合立の高等女学校の設立が’進められた経緯がある。

つまり、前者は、公立で「学びたい者は集まれ」トップダウン方式で、下仁田高校は「学ばせたい者に教育の機会を提供したい」というボトムアップ方式で実に熱い精神だった。


これを見ると、上信電鉄敷設運動にしても、下仁田高校開祖にしても、時代の流れに乗り遅れまいと私欲を顧みず投資をした先達の行いに脱帽です。



ただ近年入学者数が減少の一途を辿っているのは残念としか言いようがない。最盛期は、普通科、家政科、商業科とあり、毎年250人前後の卒業生を輩出していたが、最近年は、30人台と低迷気味。


平成9年刊行下仁田高校「目で見る60周年詩」より引用

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